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無名異 窯変壷 |
〜 試行錯誤をくりかえし、たどり着いた「無名異」 〜
五代・伊藤赤水*が大学を卒業し、佐渡に戻って家業に就いた昭和40年代は高度成長期だったので、佐渡の観光も盛況でお土産物としての無名異焼がよく売れていました。 赤水窯でも、店頭に並ぶ商品が足りないくらいこともありましたが、そんな中、「このまま佐渡観光の土産物としての無名異焼だけを作っていていいのか」と、陶芸作家を目指す気持ちが膨らんできました。
当初は、赤い無名異だけでは表現が限られると考え、佐渡中の土を探しまわり、実際に何度も焼いて確かめました。結局、そうしてたどり着いたのは無名異でした。
いずれは東京で開かれる公的な展覧会で結果をだしていかなければいけない、そのためには佐渡金山でとれる無名異に価値がある、無名異の赤にこだわっていこうと決意したのでした。
*わかりやすくするため、襲名前も「五代・伊藤赤水」と表記します。
〜 逆転の発想「窯変」 〜
無名異焼を選んだ五代・伊藤赤水は、無名異の赤を生かすためには釉薬を使わない焼締めがいいだろう、また、無名異の赤をより魅力的にみせるには、別の色を配したほうがいいと考えました。
無名異は鉄を含んだ赤い土で、窯で焼くと炎の当り方によって、そのまま赤い色になったり、黒く変色してできたりします。
この、黒い変色(窯変)は、中国の朱泥を目標とした明治以降の無名異焼にとっては邪魔なもので、時として不良品として扱われていました。
この当時も黒が入った無名異焼は不良品扱いとされていましたが、五代・伊藤赤水は逆転の発想で、この窯変が赤の魅力をより伝えることができるはずと考え、昭和43年(1968年)ころから、窯変の作品をつくりはじめました。そして昭和47年(1972年)無名異窯変壷で日本伝統工芸展に初入選し、その後も受賞を重ね評価されつづけてきました。
現在では、「窯変」と「練上」が五代・伊藤赤水の二大技法と言われています。
〜 結果はまだでていない「ひと味違う窯変」 〜
陶芸作家は経験から、窯の置く位置により、どのような窯変に仕上がるかがおおよそわかります。しかし、微妙な部分は焼きあがらなければわかりません。
「赤い地にどういう種類の黒を配するのがいいのか」「黒地に赤を入れるにはどうするか」
30年以上窯変を手がけ、人間国宝に認定されてもなお「ひと味違う窯変」の存在を信じる五代・伊藤赤水の、窯変を変えていこうという試みは続いています。 |
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無名異 練上線紋鉢 |
昭和55年(1980年)に日本伝統工芸展で無名異窯変壷が奨励賞を受賞したことをきっかけに、窯変に次ぐ表現方法を模索しはじめた五代・伊藤赤水は、知っている様々な技法を試し研鑽を積んだ結果、昭和59年(1984年)に異なる色の土を重ね合わせて紋様をつくりだす「練上」にたどり着きました。
翌年、初めて出品した無名異の練上の作品で日本陶芸展の最優秀作品賞・秩父宮賜杯を受けました。
〜 紋様の変化 〜
五代・伊藤赤水が最初に手がけた練上の紋様は「線紋」とよんでいる、線をベースにした紋様でした。これを選んだのは、技法的に一番簡単だったからです。
次は花紋へと紋様は変化していきます。線紋を続けるうちに他の紋様もやれることがわかり、新しい紋様へと意欲が増し、作品に合う紋様はと考えた結果、花の紋様を選びました。
花紋の次は、奥行きのある花紋。新しい創作への情熱は冷めることなく、現在は魚紋、鳥紋などの新しい紋様の練上作品を次々と発表しています。
色は、赤・白・黒の三色が基本となっています。 |
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佐渡ケ島 |
人間国宝となって5年余り、己の技術や世間の評価に安寧することなく、新たなステージを思い続ける五代・伊藤赤水は、平成21年(2009年)佐渡の岩石を素材にした「佐渡ケ島」シリーズを発表しました。
日本海に浮かぶ、沖縄に次いで大きな島、佐渡。
島の呼び方は時代や人により様々です。
「さど」「さどがしま」「さどしま」「さどし」。古くは、「さどのくに」「さどけん」「さどぐん」
五代・伊藤赤水は、「さどがしま」の呼び方にこだわります。
それは、「佐渡(さど)」よりも「佐渡ケ島(さどがしま)」と言ったほうがインパクトが強いと考えるからです。
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