ゴールドラッシュに夢を追い、佐渡へ
伊藤家の始祖は、1670年頃に加賀から渡ってきた伊藤伊兵衛となっています。
以来、代々「羽口」づくりをなりわいとしてきました.。
*羽口*
佐渡金山で金鉱石の精錬過程で使われる送風管。 当時、陶土で量産されていた。
佐渡の陶祖「羽口屋」
1674年(延宝2年)、伊藤赤水の祖先である甚兵衛は「羽口屋」の窯を開き、羽口や素焼きの日用品を製造しました。
これは一般に「甚兵衛焼」と呼ばれました。
四代伊兵衛からは茶碗や皿などをつくり、六代甚兵衛は雲山焼を創始し、1819年(文政2年)から七代甚兵衛は茶碗作りを研究し、のちに茶碗作りの名手として広く知られました。
無名異焼きのはじまり
1800年代にはいると、古川友八が相川の佐渡金山から産出される無名異(酸化鉄を多量に含んだ赤土)を発見し、切り傷や火傷の際の止血剤としての効能に着目、一般販売を始めました。
伊藤家では、伊兵衛から八代目(羽口屋七代)甚兵衛が家業のかたわら、無名異を陶土に混ぜて日用品をつくりはじめました。
これは、低温焼成であったため今日の無名異焼のように堅地ではありませんでした。
赤水窯のはじまり〜初代・伊藤赤水〜
佐渡の陶祖といわれる羽口屋三代の長男文四郎は、別家を創立し、陶器製造を専業とした羽口屋分家窯を開きました。
この窯の五代目(佐渡に渡ってきた伊兵衛から九代目)富太郎は、本家七代目の着想(無名異を陶土に混ぜる)からヒントを得て、高温で焼成した硬質の無名異焼をつくることに成功しました。(三浦常山と相次いで成功)
無名異焼を創始した富太郎は、のちに赤水を名乗り、赤水窯と称しました。
「赤水」というのは、金鉱から流れ出る疎水が赤い色をしていて、それが流れる間切川(通称赤川)の分流が家の前を流れていたことにちなんで、佐渡の漢学者・円山メイ北がつけたと言われています。 |
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五代・伊藤赤水の生い立ち
本名は、伊藤窯一(よういち)。1941年(昭和16年)6月に赤水窯の長男として誕生。
五代が生まれるとすぐに父親の四代は出征し、五代が5歳のときに戻ってきました。
戦争で陶磁器が低迷しているなか、窯の仕事を軌道にのせるためしゃかりきに働く四代に、子供を構う心の余裕はなかったのでしょう。祖父の三代に連れられて仕事場に行くと「仕事場には来るな」と言われていました。
そのため、五代は19歳になるまで、四代の仕事を見ていましたが、ほとんど土に触ることはありませんでした。
大学は、父親の母校でもあり、将来は窯の跡を継ぐために工房経営と芸術の両方を学びたいという五代の希望にも合った、京都工芸繊維大を受験しました。
東京で浪人をしていた1961年(昭和36年)12月に父親(四代)が急死。その打撃は大きなものでした。
将来に悩んでいた大事な時期だったこともあり、身近に相談ができ、アドバイスをしてくれる人が亡くなったこと、家業を存続させることへの心配などもありました。
翌年、京都工芸繊維大学工芸学部窯業工芸学科に合格。赤水窯の経営は三代に任せ、大学へ。
家業を継ぐ決意を固めていた五代は、大学にやきもの作りに即役立つ講義を求めていました。しかし、陶芸に直接役立つ講義はほとんどなかったため、講義は欠席がちになりました。
しかし、この大学時代の4年間に、洗練された京都の空気を吸ったことは、その後の作風に影響し、個展で「京都らしい」と評されるようになりました。
1966年(昭和41年)に大学を卒業し、佐渡に戻った五代は、「轆轤を引けなければ話にも仕事にもならない」と覚悟を決め、当時赤水窯で働いていた熟練した従業員の技術を見よう見まねで学び、日夜轆轤を引いて練習を重ねました。
全国レベルの展覧会に出品するようになったのは、佐渡に戻って3年たった、1969年(昭和44年)からです。
無名異の伝統を生かすため、「日本伝統工芸展」に出品するようになりました。
初入選したのは、出品4年目のことでした。
作品は、当時「不良品」とされていた窯変の壷です。
五代は、無名異の赤を生かすためには釉薬を使わない焼締めがいいだろう、赤一色よりも別の色を配したほうがいいだろうとの考えから、炎の当り方によって黒がはいる「窯変」にたどり着いたのです。
この初入選の連絡は、2003年(平成15年)に、重要無形文化財保持者の認定の連絡を受けたときよりもうれしかったということです。
歴史を背負い、つなげるタスキ
伊藤家の祖先が佐渡にきて300年あまり。その間、途切れることなくやきもの作りに携わってきている家の歴史を、五代・伊藤赤水は重く受け止めています。
自分の代で終わることは出来ないという
歴史の重さを感じます。
これまで築き上げられたものを
自分が受け継ぎ、
次の世代に渡さなければいけない。
言ってみれば、
ぼくは終わりのない駅伝競走で一区間を走る
ランナーのようなものです。
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